「不条理な演劇祭」【イヨネスコだらけ】【ベケットばかり】開催によせて、主宰 多和田真太良のエッセイを掲載します。
―不条理の演劇雑感―

不条理の演劇、といえば連想するのはどんな劇作家だろうか。イヨネスコ、ベケット、カミュ、サルトル、ショーや日本では別役実など、演劇に関わっている人は戯曲を読んだこともない人ですら、なんとなく名前は知っているものだ。


日本人はベケット、さらには『ゴドーを待ちながら』というイメージが非常に強いのではないだろうか。いつまで待ってもやって来ない「ゴドー」。おそらくこの先もずっとやって来ないであろうその人を待ち続ける不毛な行為を続けるウラディーミルとエストラゴンの姿は、さまざまな社会情勢や政治状況に置き換えられて、混沌とした出口の見えない現実社会を痛烈に風刺する舞台としてよく目にする。

やってこないものをひたすら待つ。それが不条理の演劇のテーマなのだろうか。

答えは、わからない。不条理の定義はなかなかに難しい。さらにカミュやサルトルでは不条理の定義そのものを巡って大きな隔たりがあり、そのために大きな論争となったこともある。

日本人にはきわめて理解しがたい部分がある。それは宗教的な世界観の違いから生じるものかもしれない。例えば、『ゴドー』に見られる永遠に続く円環する時間。不毛とも思えるこの時間を、不条理の演劇の大切な構成要素として、系譜をたどる場合がある。

そこで引き合いに出されるのは、不条理の演劇のスタートともいわれるイヨネスコの処女作、『禿の女歌手』だ。
 『禿の女歌手』は小説で人気を博したイヨネスコが、「演劇を馬鹿にするために」書いたといわれる「反戯曲」という副題までついた作品だ。演劇が会話で成り立っているのなら、会話を勉強する外国語の教科書の会話をそのまま芝居にすれば戯曲として成立するだろう、という発想のもと書き始めたという。イヨネスコという人は、自分大好き人間でもあるようで、この作品で成功した自分を不条理の演劇の権威化するために、晩年に向けて様々なことばを発信し続けた人なので、この作品を書くに至って「神の啓示を受けた」とか、「教科書の写し書きを始めたら、登場人物たちが勝手に動き出し、しまいには音節になるまで言語が解体してしまった」などと人を食った発言をしているので、にわかに何が本当の動機かはわからない。しかしそもそも上演を想定していなかったというのは本当のようだ。 
これを本気で上演しようとした演出家が、日本でも活躍することになるニコラ・バタイユだ。ただし彼の発想は極めて(演劇人として)常識的だった。そのため、当初この戯曲の幕切れは、観客が芝居に対する不平を表明するや劇場関係者らによって抹殺され(本当には殺さない)、俳優や演出家たちが愉快に語り合う、というとんでもない設定になっていたのだが、バタイユはこれを作者の激しい抵抗を退け、冒頭の一組の夫婦の会話をもう一組の夫婦が代わりに始める、という設定に変更した。延々と同じ馬鹿げた会話が行われ、あるところで崩壊し、また逆の夫婦が会話を最初からやり直す、ということを想起させるところで幕が下りるのだ。現在もこの「現実的な」方法で上演されている。

お気づきだろうが、ここに不条理の演劇の重要な展開とされる永遠に円環する時間は、イヨネスコが発想したものでも、不条理の演劇に必然的に存在するものでもなかったのだ。
つまり、日本人が大好きな『ゴドー』や、電信柱とゴザのもとで行われる別役の芝居など、不条理の演劇には不可欠と思われている永遠に続く円環する時間は、決してイヨネスコからベケットへ引き継がれた系譜などではないのだ。そのことを認識するだけでも、不条理の演劇の入り口は極めて間口が広がり、イヨネスコの自由度は、むしろその場で終わってしまう「無意味さ」の中にあるのではないかと考えることができよう。

しかし無意味さ、を理解するのは、もしかすると終わりのない永遠に続く時間を理解するよりも、我々には難問かもしれない。

我々は演劇に意味を見出したがる。せっかく時間を費やして観た芝居が、自分にとって全く無意味な時間であったら損をした気がするからではないだろうか。

ベケットの後期の作品は、沈黙や、はたまた恐ろしいほどの分量の言葉に覆い尽くされていたり、『クワッド』のように、もはやお芝居というより規則正しく動く人間を媒介にしたゲームを見せられているだけのようなものへと発展していく。これが極めて日本人は苦手とするようで、どうしても『ゴドー』のような、まだ登場人物が会話をするようないわゆる「お芝居」の形をとっているものから、さまざまな意味を思い浮かべ当てはめて行くほうが性に合っていると考える。
このゲーム性、あるいは規則性というものに焦点を当てて考えてみよう。実は『ゴドー』の中にも、そのゲーム性が片鱗を見せている個所がある。
2幕で、ポッツォが忘れて行った帽子を加えた三つの帽子を、ウラディーミルとエストラゴンが脱いだり被ったりして順々に回していく場面がある。しばらくその無意味なゲームを繰り返し、最後に半ば強制的に、余っている帽子を投げ捨てて終わる。

この場面は、ベケットがマルクス兄弟の映画『我輩はカモである』で登場する帽子ゲームを参考したことが分かっている。(ちなみにこの映画には有名な「鏡の間」のコントがあって、日本では志村けんがこの手法を多分に取り入れてコントを作っている。)

では、なぜそんなことをするのか。答えは「意味はない」。一定の規則性に基づいて、正確無比な場面を演じても、それに費やした時間は無意味である。

こう断言されると、日本人は認めたがらない。いや、そんなことはない。何かの風刺かもしれないし、きっと何か意味がある。

そう頑張っても、決してそれは間違っていない。しかし、多分回答は、特にない。

問題はここからなのだ。こうした理論的に構築された、非常に高度な規則性のあるゲームを展開する時間も、宇宙的な大きな時間の流れから考えれば、微々たるもの、いやむしろほぼ何の変化も与えないであろう。何もしなくても、革命的な何かを起こしても、人間一人ひとりが過ごす時間にどのような事態があったとしても、地球を含めた宇宙の時間の流れの中では、あろうがなかろうが、特に関係はない。そんな風に考えては絶望するかもしれない。しかし、絶望することも、もしかしたら人間にしかできない能力なのだ。

とかく「生きがい」や「人生の意義」を見つけなければ人間として成長できない、有意義な人生が送れない、というイデオロギーの中に生きる私たちにとって、目の前の時間に意味を見出すことこそが最大のイデオロギーになっていることを私たちは気づけない。いや、もしかすると気づかないふりをしているのかもしれない。絶望しないために。ではなぜ絶望してはいけないのだろう。今の社会はそれに対する回答を用意していないし、用意してはいけないことになっているのかもしれない。

ベケットの不条理の中には、キリスト教的な宗教観が根深く存在していて、それを理解することはもしかすると我々には不可能なのかもしれない。しかし、芝居を見ることで絶望することができれば、日常では立ち入ることのできない宇宙的な時間を感じ取ることが、もしかすると出来るのかもしれない。それが不条理の演劇の魅力の一つだ。

長々と書きましたが、この文章は全てでたらめかもしれませんし、特に意味もありません。