ロの字に並んだテーブルを囲んで、本読みが続いております。

私の名前は「立(りゅう)」ですが、生後二歳近くまで立ち上がらず、親戚中から早くも名前負けだとの謗りを受けたそうです。

『高崎山殺人事件』も、まだ立ちません。こちらは立てないのではないですよ。


立ち稽古になって実際に俳優たちが動き出すと、それまで活字と声だけでしかなかった劇は、一気にその姿を現しはじめ、それまでとはまるで異なる顔を見せることもしばしば起こります。
しかしながら、それでもテーブルの上で詰めておかねばならないことというのはあるものです。

化学に例えれば、本読み稽古では戯曲に対する仮説を立て、立ち稽古はそれを実験し、是非を問い、修正していく過程にあたるのではないでしょうか。

DRPはときおり「リーディング公演」というものをやっていますが、これは、活字が舞台に乗るまさにその瞬間をつかまえる試みです。

昨今は世界的な兆候として、「身体的」である演劇が隆盛を極めていますが、戯曲を上演する演劇の場合、「身体的」であるだけでは太刀打ちできないところが依然として多く、その「知性」の部分は、じっくり活字と向き合う本読み稽古が負っています。


戯曲という名の、紙に書かれた活字をどう舞台に乗せるのか?


これはこの劇だけに限らず、戯曲を上演する演劇という媒体が本来的に持っている課題なのでしょう。
DRPが長い時間をかけて取り組んでいるのは、まさにこの課題です。